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長久手 ”腕から上“ツアー

物語をさがして vol.09

近頃、パソコンやスマートフォンを操作する時間が長いせいか、目の疲れや肩こりを感じることが多いです。いや、年齢のせいかもしれないのですが。

適度な運動や睡眠、食生活が大事なことは承知していますが、なかなかそういった地道なアクションが追い付かないこともしばしば。

あまりあくせく生きずに温泉でゆったり湯治なんかができると最高ですよね。

そんなふうに慢性的に肩こり症の私ですが、1961年刊行の『愛知県伝説集』福田祥男(名古屋泰文堂)の中に、興味深い伝説スポットを見つけてしまったのです。


八左衛門の墓

首から下を埋めたという説も。どっちにしても恐怖です

八左衛門は死に際に改心して仏ごころを持つようになったのでしょうか。
なにやらとても哀れな気がしてしまいます。

それにしても村のコミュニティの結束力は凄いですね。
古い資料を見ているとしばしばこういった私刑の風習があって驚かされます。
例えば、物を盗んだ村人を穴に落とし込んで生き埋めにしてしまうなど(みよし市)・・・ずいぶんと手荒く残酷!

さて、八左衛門の墓は今も長久手市の岩作中島にあります。墓といっても、小さな地蔵堂です。色金保育園のすぐ裏手の細い道に面して背を向けるようにして建っているので、通りからはすぐには見つけられません。

ですが、この石柱はいかにもなにかありそうだなという雰囲気がしますし、「長久手市内の隠れた史跡」(長久手市郷土史研究会)に写真がちゃんと載っているので迷わず見つけることができました。

この石柱の裏に回ります
八左ヱ門を祀る小さな地蔵堂がありました。
きれいな生花と陶器のネコがお供えしてあります

駐車場も看板もなく、人が多く通るわけでもないのに、そこだけひっそりときれいに整えられています。200年も前にさかのぼる寛政年間の言い伝えにもかかわらず、新しいお堂や石仏などが作られ、供養がされていること、長久手の隠れた史跡として皆で大事にしていることにとても心打たれました。
私も八左衛門の墓に手を合わせ、取材などに訪れた失礼を詫びつつ、腕から上の健康を祈願してきました。

この近くにはもうひとつ、腕から上にちなんだスポットがあります。


長久手の耳塚


長久手消防署の横、田んぼのすぐ横にある「耳塚」です。

ふしぎな、耳のような形をした石です。

長久手市の設置した案内の看板によると

合戦にあたり、徳川家康が戦いに勝利した際には、敵方の片耳をそぎ取り持参させて、後日勲功の証とせよと指示した。そのそぎ取られた討死者の耳を埋めて供養した塚が見無塚であるとの言い伝えがある(長久手市)

とされています。建立の年代や伝承の真偽は不明ながら、地元では
「耳の悪い人は耳塚に祈願すれば平癒する」とも言い伝えられているそうです。

ちょうどこのあたりの土地は長久手合戦最後の戦闘地、池田軍壊滅の地にあたります。ですから、合戦の後、戦死した兵の屍を、村人はこの地に埋めて、数多くの塚が建ったといいます。

この近くにある安昌寺の雲山和尚は、人々と一緒に将兵の屍を集めて塚を築き手厚く葬ったといいます。その跡地は「首塚」(国指定文化財)として今も残っています。


長久手の首塚

首塚の入り口
ここの地蔵が鎧を被っている様に見えました
古くから、長い間手あつく供養されてきた様子がうかがえます

現在は住みよい市として人気の長久手市ですが、さかのぼればたくさんの血が流れ、命が失われた場所でもありました。新しい住宅や店舗ができ、人の賑わいがうれしくもありますが、同時に多くの塚が失われ忘れ去られてもきました。

そういえば、20年位前には、長久手古戦場の交差点付近には「古戦場です お静かに」という看板が立っていて、少し神妙な気持ちになったことを覚えています。いにしえの兵士たちはこのめざましい町の発展の様子に目をみはり喜んでくれているでしょうか。

パソコンやスマートフォンで手元を見つめるのもいいけれど、時には残された史跡をたよりに遠い日に思いを馳せるのもいいかもしれません。肩こりにもよさそうですよね。

そうでした、長久手には天然温泉の「ござらっせ」もありますから、凝り固まった体と心を、腕から上ばかりではなく、全身をいたわりつつ、今日の日をせいいっぱい生きたいものだなと思いました。

参考
『愛知県伝説集』福田祥男 名古屋泰文堂
広報ながくて No.643いっぺいといっぷく「言い伝え」
「長久手市内の隠れた史跡」(長久手市郷土史研究会)



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